4月はあっと言う間に過ぎ、何時の間にか新緑溢れる季節が到来した。
誠哉は相変わらず変化のない日常を過ごしていた。
朝起きて学校に行き、放課後はテニス部の副部長として部員を纏め、時折図書委員会の仕事で図書整理をし。
変わったことと言えば、図書委員になったのが鈴木ではなく千堂左京だったということ、
そして千堂左京が思っていたような人物ではなかったということくらいだった。
あの日以来、誠哉が左京に対して恐怖を感じるようなことはなく、
寧ろ今ではあの日感じた恐怖は自分の錯覚だったのかもしれないとさえ思うようになった。


「羽山君、ちょっといい?」


図書整理の手を休めて後ろを振り返ると、本を数冊抱えた千堂が立っていた。


「なんだ?」
「これ落丁しちゃってるんだけど、どうすればいい?」
「あぁ、カウンターの下に籠あるからそこに置いといて」
「うん、わかった」


ここ最近接していて気付いたが、千堂は口数も少ないが表情も少ない。
現に今も全くといっていいほど変わっていなかった。
そういう意味では自分の知る誰かに似ているかもしれない。
彼もあまり家では表情を出さないから。
と考えたが、それでは余りにも千堂に失礼だろう。
『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』と噂される彼女がまさかあの男のような振る舞いをするわけがあるまい。
千堂が義政のように面を切る姿を想像してしまい、思わず笑いを堪えた。


「残念・・・」
「えっ?」


いきなり呟かれた一言に再び背後を振り返る。
千堂は落丁した本を抱えたまま突っ立っていた。


「この本、読みたかったのに」
「あぁ・・・、『レ・ミゼラブル』か」


一番上にあった本は『レ・ミゼラブル』
彼女はそれを穴が空くのではないかと思うほどじっと見つめている。
それほどまでにこの本が読みたかったのだろうか。
そう言えば、確かこの本は誠哉の部屋にあったはずだ。


「その本、俺のを貸そうか?」
「いいの?」
「あぁ、今日は部活も無いし取りに来れば貸すよ」


一瞬驚いたように目を見開くと、今度は誠哉のことをじっと見つめてきた。


「・・・お願いしてもいい?」
「ああ、いいよ」
「ありがとう」


千堂ってこんな風に笑うんだ。
などど頭の片隅で思いながらも誠哉は再び片づける手を動かし始めた。
そして午後4時過ぎ。
図書委員の仕事を終えると、誠哉は千堂と共に家路についた。





* * * * * * * * * *





唖然とした表情で羽山家を見上げた左京の顔は今でも思い出すことができる。


「・・・大きな家ね」


これぞ日本家屋と言った感じの羽山家の大きさに余程びっくりしたのか、
目を丸くし口をぽかんと開けた彼女は、普段の無表情な彼女からは想像出来ないくらい表情豊かだった。
きっと学校の奴らが今の左京を見たら、今の左京と同じ表情をするに違いない。


「爺さんと婆さんの持ち家なんだ」
「へぇ・・・」
「あがれよ」
「うん、お邪魔します」


家に入ると誰もいないようだった。
そう言えば祖父母は老人会のゲートボール大会に出るとか言っていた。
二人とも70過ぎた老人だが、そうとは思えないくらいピンピンしている。
「戦争を経験したもんは強いんだ」とは祖父の台詞だが、それはあながち嘘でもないと思う。
未だに腕立て伏せを軽々とこなす祖父には脱帽するしかない。
それに残る一人はどうせまた外で悪さをしでかしているはずだ。
きっと帰りは遅いのだろうし、さほど気にかけなくてもいいだろう。
左京を庭に面した居間に通すと誠哉は自分の部屋に本を探しに上がった。


「確かこの辺だったと思ったんだけど・・・ あっ、あった」


探し初めてから10分ほどたったところで漸く目当ての本が全て揃った。
今回貸す本は10冊ほど。
帰りに話していて分かったのだが、割と誠哉と本の趣味は合うらしい。
部屋の隅に置いてあった紙袋に本を仕舞うと、誠哉は下へと降りる。
階段を降りきったところで話し声が聞こえてきた。
祖父母が帰ってきたらしい。
なんだ帰ったなら帰ったといつものように声をかけてくれたらいいのに。
それとももう千堂を見つけて彼女と話し込んでいるんだろうか。


「へぇ・・・お前、面白いこと言うな」
「あら、図星だったかしら」


だが目に飛び込んできたのは、祖父母と会話する千堂の姿ではなく、
暴君と恐れられる兄を、始業式と同じような冷たい視線で見つめている彼女の姿であった。
兄の地を這うような低い声を聞き、誠哉の足がぴたりと止まる。
同時に体がぴりぴりと痺れだしたように思えた。
全身を針で刺されたようなこの感覚に誠哉は思わず息を飲む。
今対峙しているこの二人から誠哉が感じるものは恐怖以外の何物でもなかった。
人を飲み込み、喰らい尽くさんとする絶対零度の恐怖。
この感覚を前にすると一切の身動きがとれなくなる。
どうやら誠哉の勘は間違いではなかったらしい。
この二人は似ているのだ、本質的に。
やはり千堂に近づいたのは間違いだったのだろうか。
問題を自ら招き入れてしまったようなものだったのだろうか。
握りしめた手の平にじんわりと汗が滲む。
世界から色が消え音が消え、モノクロームの空間に閉じ込められた。


「まぁ、確かに俺もお前もあぶれもんだからな」
「そういうこと」


兄はともかく千堂があぶれ者とは一体何のことか。
だがそれを考える余裕は何処にもない。


「ねぇ、どうでもいいけど誠哉が入って来れなくて困ってるみたいよ」
「あぁ・・・、いたのか」


千堂の言葉を皮切りに、二人の視線が一気に此方に向けられた。
ぱちん、と弾ける音が誠哉の頭の中で鳴る。
途端に色と音が戻って来た。


「本はあったかしら?」
「・・・これだ」


本を千堂に差し出す。
その時にちらりと千堂の瞳を見つめたが、やはりもうあの冷たさは消えていた。
いつもの千堂左京である。


「ありがとう、テスト前には返せるようにするわ」
「急がなくていいよ、俺は当分読まないし」
「そう、それじゃお言葉に甘えることにする」


千堂は荷物を纏め立ち上がる。
また学校で、その一言を残し千堂は帰っていった。
居間に残されたのは誠哉と義政だけ。
無言の義政に誠哉は気まずい雰囲気が流れる。
もうこれ以上この場所にいたっていいことはない。
義政に捕まる前に立ち去るのが得策だ。
自分の部屋に帰るべくそそくさと義政に背を向けた。


「おい、誠哉」


普段なら誠哉を『お前』とか『おい』という言葉でしか呼ばない義政が、
珍しく誠哉の名前を呼んで彼を呼び止めた。
彼が自分の名を呼ぶなんて、天変地異の前触れか。
それともとうとう彼の拳を喰らう日でも来たのだろうか。
とっさに義政を振り返る。
不思議なことに義政は未だに千堂の去った玄関を見つめていた。


「あの子、名前は」
「千堂、千堂左京
 クラスが一緒なんだ」
「なんか部活やってんのか?」
「やってないけど、よく図書室にいるのを見る」
「へぇ・・・」


にぃっと義政の口端が上がるのが見えた。
思えばそれが、全ての始まりだったのかもしれない。
あの時答えていなければ違う未来があったのだろうか。
だが誠哉は答えてしまった。
そして始まった。
誠哉にとっても左京にとっても悪夢の日々が・・・。





* * * * * * * * * *





「で、それで終わりなわけ?」
「二人は何話してたんだ?」


如何にも不満そうな弟たちがずいっと誠哉に詰め寄った。


「二人の会話は知らんが、その後の奴らの変貌ぶりならよく知ってる」
「あっ、それ聞きたい」
「まぁ、それで我慢するか」


なんちゅう態度のでかい弟共だとも思わないでもなかったが、急かされるままに誠哉は続きを話し出した。


「あの後の義政の変わりようって言ったら無かったぞ」


まず一番変わったことと言えば、いつの間にか『北高の暴君』の名が聞かれなくなったことだ。
不思議なことに義政が左京に出会って以来、義政はまるっきり喧嘩をしなくなった。
そして次第に彼には表情というものが生まれていった。
今までの無表情はどこへ行ったのかと聞きたくなるくらい、感情に合わせてコロコロと表情が変わるようになった。
それは左京にも言えることで。
誠哉にとってはそれ程驚くことではなかったのだが、周囲の生徒にはそうでもなかったらしい。
彼らの驚きようといったらなく、果ては「貴女本当に千堂さん?」と聞かれる始末だった。
よく左京が「あたしは猫なんか被ってないんだからね」と主張していたが、あの憤慨ぶりからするとあながち嘘でもなかったのだろう。


「へぇ、それで今の義政が出来上がったわけだ」
「それだけじゃないぞ」


それは目立たずに暮らすという二人のモットーからすれば、地獄以外の何物でもない日々の幕開けだった。
義政が左京と出会ってから1週間程たったある日のことだった。
テニスのネットを張っていた誠哉の元に、顔を青くした左京が猛スピードで走ってやってきた。


「なんだよ、千堂」
「いいから、来て」


半ば引きずられながら向かった先にいたのは・・・。


「まさか・・・」
「義政・・・?」
「正解、あいつ左京のお出迎えとか言って、放課後毎日左京のこと待ち伏せしてやがったんだ」


そう、それこそ雨の日も風の日も欠かすことなく。
嘗ての義政の担任が帰るように忠告したりもしたのだが、勿論彼が聞くわけもなかった。
そしてこのことは学校中の話題となり、誠哉も左京もいい迷惑を被った。
誠哉は「あれはお前の兄なのか」と詰め寄られ、
左京は「あの人との関係はどうなっているのか」と好奇の目を浴びた。
最初こそ止めさせようと必死だった左京も、暫くすると無駄だと悟ったのか、
率先して義政を引っ張って帰るようになっていた。
まぁ結局、この頃からこの二人の距離は縮まっていったのだろう。
中学を卒業する頃には祖父母公認の仲となっていたのだから。
誠哉は思う。
結局のところ、この二人は出会うべくして出会った二人なのだと。
最初はあの二人は似ているからこそ寄り添い合っているのだと思っていた。
だがそれは違っていた。
今ならこう言える。
彼らは別々の似通った個体というよりは、互いが互いのピースであり二人で一つの個体。
言わば運命共同体なのだと。
その存在の仕方が正しいか否かなんてわからない。
だがそれがあの二人であるのだと。
だからきっと、どれだけ誠哉が足掻いてもこの二人が出会うという運命を変えることは出来なかったのだろう。


「ちなみに左京が高校入ってもお出迎えは続いたらしいぞ」
「うわぁ・・・」
「ただのストーカーじゃん」


気づけば時計の針は既に3時を回ったところ。
温くなったビールを一気に飲み干すと誠哉はおもむろに立ち上がった。


「ほら、話はこれでお終いだ
 学生はもう寝ろ」
「そうすっか、そんじゃお先」
「楽しかったよ お休み、誠哉」
「あぁ」


弟二人が二階へ上がったのを確認し、誠哉は息をついた。
最初はどうなることかとも思ったが、なんとか二人の注意を反らすことができた。
今日の礼は後でたっぷり義政からせしめるとしよう。


本当はもっと知ってることがある。
伊達に長年、弟と親友を務めてきたわけじゃない。
でもそれはきっと胸の内に仕舞っておくべきことだ。
人間誰だって闇の一つや二つ抱えているものなのだから。


「にしても、本当に損な役回りだよな・・・」


自嘲気味に呟かれたその一言とは裏腹に、月明かりに照らされた誠哉の表情は晴れ晴れとしていた。











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後書き

というわけで、一応左京と義政の出会いは終わりです。
この二人が何を話していたのかは・・・そのうちどいうことで。